仮想病院「RINGO」

第1話:A is for addiction, apple, alcohol...

 左手の甲にちりちりとしたシグナルを感じて、おれは水を掻く手を休めた。インジケー
ターは水中でも鮮やかなカーバイドイエロー、準緊急呼び出しだ。仕方なしに浮上する。
口に含んでいた酸素錠をプールサイドの溝に吐き出し、テーブルの携帯情報端末をのぞき
込む。17才白人男性、自室で開かれたパーティーの途中で胸苦しさを訴えて昏倒。血圧
70/40、呼吸数24、脈拍120微弱。呼び出しに応えて集まり始めたスタッフの会
話がスピーカーから流れる。
「パーティーってなにかしらねえ?」麻酔科/精神科担当のビィ女史の声だ。
「どうせドラッグでしょうよ。ふああ」カッツは眠そうだ。無理もない。彼の居住地はRINGO
の時間帯から7時間ほどずれているから、今は真夜中のはずだった。
 着替えている時間はなかった。バスタオルで髪の水気を拭き取り、端末の裏側からヘア
バンド型のエンコーダー/デコーダーを取り出して装着する。
 軽いショックとともにジャックイン。世界が切り替わるとき、目の前が真っ白になると
いうやつと、反対に真っ暗になるというやつがいるが、おれはそのどちらでもない。目の
前の景色が平板になって色を失い、その裏側から徐々に仮想世界が現れるだけだ。急いで
いるので導入部は省略する。おれはミルク色の空に浮かぶ仮想病院「RINGO」に急速度で
接近し、染みひとつないつややかな果皮に頭から突っ込んだ。次のシーンはもう診察室だ。
緑色の半透明な壁に囲まれた部屋の中央に高さと形を自由に変えられるベッドが浮かび、
その上に半裸のやせた少年が横たわっていた。あばらの浮き出た胸。栄養状態が良いとは
言えない。薄汚れた金髪が汗で額にまとわりついている。目を閉じ、あえぐように呼吸し
ている。ベッドの傍らに立つ治療モジュールは黒いタイ、ブルーのシャツにジャケット型
の白衣をきっちり着こんだ白人男性『デニス』、介助モジュールは小柄なブルネットの若
い看護婦『マリア』という組み合わせだった。少年の文化背景に合わせて一次治療部のコ
ンピュータが選んだものだ。治療モジュール『デニス』を操作しているは研修医のテオだ
った。
「クライアントの名前は?」わずかに東部なまりのある英語。テオの質問は自動的に翻訳
されて『デニス』の口から発せられる。
「ピーター」『マリア』の発音は「ペーター」に近かった。
「オーケー、ピーター、ピート、わかるかい?」
 揺すっても叩いても反応がない。
(テオちゃん、そんなんじゃ起きないよ、貸してごらん)
 オペレーター同志の間でしか聞こえない内話モードで割り込んで来たカッツがいきなり
『デニス』の操作権を奪い、ピンク色の少年の乳首をぎゅっとひねった。強烈な痛み刺激
に反応した少年は顔をしかめ、『デニス』の手を払いのけようとする。
(これでも目を開けないか… テオちゃん、意識レベルは?)
(えっと、200ですね)
「原因はなんだろう?」
 テオが『デニス』の声でつぶやくが早いか、介助モジュール『マリア』がウィンクしな
がら自分の胸を指さした。呼気の分析結果が『マリア』の豊かな胸を背景にしたホログラ
ムで表示される。アルコールとアセトンが派手に飛び出していた。実際に目の前で診察し
ていたら、猛烈な酒臭さにへきえきしていただろうが、幸か不幸か、モジュールには化学
受容器が備わっていない。匂いや味はわからないのだ。
「サンキュー、マリア」
(急性アル中ですかね)
(みたいだね)
「検査のオーダーをお願いします」
「血算、生化と血ガス、頭部と胸部のマルチスキャンを」
「血糖値もね」すかさずビィさんが追加する。
「処置は?」
「エアウェイを入れて、血管確保。乳酸加リンゲルを急速点滴」
「末梢血管虚脱しています」
「中心静脈カテーテルを入れよう」
 『マリア』はすばやく患者の首を左に向け、肩枕を入れて頭を低くした。『マリア』が
指先を上に向けるとそこに魔法のようにピンセットが現れる。ピンセットの先には消毒液
に浸した綿球が現れ、穿刺予定部位を茶色に染めていく。『デニス』の視野にズームが掛
かり、少年の頚部が大写しになった。怒張した内頚静脈がかすかに拍動している。視野の
下縁にはバイタルサインの数値とトレンドが、数秒おきに切り替わりながら表示されてい
る。『マリア』が差し出した注射筒付きの2重針を受け取り、『デニス』は大きく深呼吸し
た。手が震えている。
(援護お願いします)
 ビィさんが補助モードで操作に加わると、『デニス』の手のふるえがぴたっとおさまっ
た。慣れた一連の動作で内頚静脈に針を刺し、血液の逆流を確認、カテーテルを挿入する。
(ところでこのクライアント、胸痛を訴えてたんでしょ。そっちの原因は?)カッツは抜
け目がない。
「心電図は正常です」『マリア』のオペレーターもなかなか優秀だ。
(となると…)ビィさんとカッツの注意がおれに向けられる。お互い遠く離れた場所で端
末を操作しているだけなのに、と思うかも知れないが、おれたちぐらい長くチームを組ん
でいるとその辺はいやでもわかるようになるのだ。テレパシーを増強する秘密のチャンネ
ルに関するジョークがこの業界には腐るほどある。
(あー、画像を出してくれる?)
 おれの発声を合図に『デニス』の視野がやや縮小し、代わってCTとMRIの3Dハイブ
リッド画像が前景に現れた。ようやくおれの出番だ。
「外傷の形跡はなし。心臓と大血管はOK」
 骨、筋肉そして心−血管系を順に表示させて所見を読み上げ、次いで肺を上から順に眺
めていく。
(ひゃあ、何これ、気持ち悪い)
 ビィさんがポインタで指し示したのは、少年の縦隔に上から下まで何本も走っている黒
い筋だった。立体表示のせいでヘビかツタが心臓に巻きついているように見える。
「ああ、これは気縦隔ですね。肺胞の破れ目から空気が入り込んだんです。胸苦しさの原
因はこれでしょう。おおかたクラックでもやってたんじゃないかな。薬物検査の結果は?」
「このクライアントの治療オプションでは薬物検査は適応外」
 『デニス』を手伝いながら『マリア』が歌うように答えた。うっかり適応外の検査をオ
ーダーすると支払い基金から文句を言われ、最悪の場合には自腹を切るはめになる。薬物
中毒の疑いが濃厚な患者なのに薬物の血中濃度が計れないなんて理不尽だが、保護者の承
諾を得て、現金で検査料を支払って貰った上でないとオーダーするわけにはいかない。
(ふう)
 カテーテルを入れ終わったテオが内話モードで大きなため息をついた。おれは『デニス』
の右足を操作し、フロアに組み込まれた透視装置のフットスイッチを入れてカテーテルの
位置を確認する。
(カテ先の位置はオーケー。テオちゃん、初めてにしちゃ上出来じゃない)
(いええ、ビィさんのおかげです)
(パーティーの参加者を待たせてありますけど)介助モジュールのオペレータから内話が
入る。
(あ、私が会います)面接はビィさんの仕事だ。
(モジュールは『レイ』でいいですか?)
(そうね。若者向けの応接室を用意してちょうだい)
 おれの視野に新たなウィンドウが加わった。ビィさんが操作する背の高い日系人女性の
モジュール『レイ』はいきなり壁をくぐりぬけて隣の診察室に入り込んだ。クライアント
の友人たちがいっせいに応接室のソファから飛び上がる。
(ビィさん、ドア、ドア)
(あらら、またやってしまったか)
 友人たちはプライバシー保護のためウサギの姿をしていた。3匹のウサギはどれも見分
けがつかず、年齢性別不詳だった。
(フロプシー、モプシー、コトンテイルってわけね)「はじめまして、私の名は『レイ』、
ドクターです。ピーターが飲んだお酒とお薬について教えて欲しいんだけど…」
(ドクター・カイ、気胸はないんでしょ? 外科の出番はないよね)カッツがまだ眠そう
な声で聞いてくる。
(そうだね。バイタルも安定してるし、あとは点滴だけでなんとかなるんじゃない)
(じゃ僕さきに上がります。おやすみなさい)カッツがジャックアウトした。猫のアイコ
ンが消える。
(カイ先生もどうぞ引き取ってください。あとの指示は私が出しておきます)
(私もインタビューが終わったら引き上げるから)
(じゃ失礼するかな)
(あ、ところでカイ先生、気縦隔って私はじめて見たんですが、コカイン中毒に多いんで
すか?)
(まあね。胸腔内圧が急激に変化するようなことならなんだって原因になるけどね。激し
い咳とかくしゃみ、出産や排便時のいきみ…)
(コカインは?)
 おれは一時的に『デニス』の操作権を握り、鼻に指をあててコカインを吸引する真似を
して見せた。露骨に顔をしかめる『マリア』を尻目におれはジャックアウトした。

 エンコーダー/デコーダーを外して時計を見ると1時間近くが経過していた。今週の通
常呼び出しはすでに超過している。今日はもうよほどの緊急事態でないかぎり呼び出しは
ないはずだ。もうすこし泳ぎたい気分だった。酸素錠はさっき吐き出してしまったし、体
はすっかり乾いている。おれは隣のLFCプールを使うことにした。
 平日の昼間とあってLFCプールの利用客は少なかった。肺の中まで液体を吸い込み、泳
いだ後でそれを排出するにはいささかコツが要るので、この時間帯の利用が多い主婦や老
人には今一つ人気がないのだろう。LFC: liquid fluorocarbon は水よりも軽くて粘度の
低い液体で、酸素を大量に溶かし込めばその中で呼吸が可能なのだ。浮力が弱いから水面
に顔を出して泳ぐのは一苦労だ。だが、そもそも LFC プールでは息継ぎの必要がない。
うすい緑色に着色された液体に身を沈め、息を全部吐き出し、代わりに液体を吸い込む。
浸透圧が調整されているのでむせることはない。肺の中の空気がすべて LFC に置換され、
もはや口から泡が出なくなったのを確認しておれは手摺から手を放し、深みに向かった。
プールの底では若い女性のグループが手をつないで座り込み、座禅か瞑想の訓練でもして
いるようだった。ラマーズ方のセッションかも知れない。おれはでたらめなスタイルでひ
としきり泳ぎ回り、やがて彼女たちから少し離れたプールの底にあおむけに横たわった。
 フィットネスセンターの屋根は紫外線をカットし、遠赤外線だけを透過するというふれ
込みの透明なパネル張りだ。数メートルの水深を隔てて見上げる空は深い緑色で、雲ひと
つなかった。羊水の中はこんなふうだったのだろうか。水中スピーカーからはかすかにバ
ッハが流れている。外界の騒音はほとんど聞こえてこない。街頭宣伝車も暴走族も携帯電
話もここまでは入り込めない。IVV(intravascular vehicle:血管内潜航艇)の操作など
でさんざん神経を使った後はここで昼寝をするのが一番だ。うとうとしながら、おれは LFC 
回収室を兼ねたウェット・サウナで聞いたよた話を思い出していた。
「シアトルかどこかに大きなビルをそのまま LFC のプールにしてるところがあるらしい
んだけど、そのプールに出たんですってよ」
 流行のレインボー・カラーに髪を染め、粗いメッシュの水着から肉がはちきれそうなお
ばさんが急に声をひそめる。
「え? なにが?」と、こちらはやせて凹凸をなくしたもうひとりのおばさん。
「いやぁ、あたしそういうの苦手なんです。やめてください」やや若い、といってもおれ
と同世代の多少は凹凸を残した主婦が両手で耳を覆う。
「…半魚人!」
「まさか」
「やめてえ」
 太ったおばさんはちらっとこちらを盗み見て、おれが聞き耳を立てているのを確認して
から続ける。
「なにしろ大きなプールでしょ。底は見えないほど深いし、立体迷路みたいになってると
ころもあるんだって。監視員もとても全部は見回れないじゃない。でね、ときどきそのプ
ールで人が行方不明になってたの。そしてある時、迷路の中で半分食い荒らされた若い女
の死体が見つかったんだって」
「うわあ」
「あーあたしもうだめ。出るわ」
 同世代主婦は緑色の汗をしたたらせながら出て行ってしまった。
「大げさなんだから、あの人」
「ほんとにねえ。でね、ワニかサメでも紛れ込んだんじゃないかって大騒ぎになって、プ
ール中を網でさらったら捕まったのよ、半魚人が」
「うそ」
「といっても正体は半年前からそこに住み着いた浮浪者だったらしんだけど。最初は売店
から食べ物を盗んだりしてたのが、だんだんプールの外に出るのがおっくうになって、つ
いには一日中プールの中にいて、お腹が空いたらひとりで泳いでる客を襲って食べるよう
になったんだって。捕まったときは全身に銀色のうろこが生えて、指には水かきまであっ
たんですってよ」
 どう考えても荒唐無稽で根拠のない話だったが、プールの底で暮らすという発想はなか
なか魅力的だった。しかし、食い物はともかくとしてもここには水がないのだから、何日
もこの中で過ごすというのはどだい無理な話なのだった。そろそろ帰ろう。マユが夕食の
支度を始めているころだ。おれはプールの底を蹴って浮上した。下では娘たちがまだ目を
つぶったまま海藻のように揺れていた。

 頼まれていた夕食の材料をマユに渡し、ついでにタンクからなみなみとジョッキにビー
ルを注いでテーブルに座る。
「もう飲むの?」
「さっき呼び出しがあって大汗かいちゃったからさ」前半は真実だが後半は真っ赤な嘘だ。
フィットネスセンターでサウナに入ってはきたが。
「そのアスパラガス、バイオ工場のじゃなくてほんとに土に植わってたやつだってさ。茹
でて食おうよ。何か手伝うことがあったら呼んでよね」罪悪感をもみ消すためについ媚び
てしまう。マユに言われるまでもなく、おれはアル中になりかけていることを自覚してい
る。量はさほどでもないが毎日飲んでしまう。何かと理由をつけては昼から飲む。たぶん、
3日も酒を飲まなかったら禁断症状が出るだろう。などと言いつつ1杯目を空けてしまい、
2杯目を注ぎに行こうとした時、キッチンからマユの悲鳴が聞こえてきた。
 それは悲鳴というよりも「ひっ」という息をのむ音そのものだったが、酔いを一度に吹
き飛ばす切迫感に満ちていた。キッチンに駆け込む。マユが冷蔵庫によりかかっている。
左手で右の指先を押さえ、その指先からは血が滴っていた。手に持ったままのジョッキを
カウンターに置こうとして、おれは白い大理石のカウンター一面に飛び散った血しぶきに
気づいた。その中心にフードプロセッサがあった。
「切ったのか? 見せてごらん」
 きつく握りしめた左手の指を無理やり引きはがす。人指し指の中節にぱっくり開いた傷
口から白い骨が見え、鮮やかな赤色の血が噴き出した。動脈性出血だ。とっさに料理バサ
ミで清潔なふきんを切り裂き、指の付け根に巻きつけて止血する。フードプロセッサのス
テンレス鋼のブレードは狩猟用ナイフのように鋭い。毎分3000回転以上のスピードで
回っている機械に指を突っ込むなんて正気の沙汰ではない。ようやく止血を終えたと思っ
たらマユはへなへなとくずおれてしまった。脈拍は速くて弱い。プレ・ショック状態だ。
 おれは端末で当直のテオを呼び出し、チームの出動を要請した。マユを抱きかかえてベ
ッドルームに移そうとしている間に聞き慣れたサイレンが近づいてきてマンションの前で
止まった。ドアを開けて入ってきた MMU (Mobile Medical Unit) に「こっちだ」と声を
掛けながら、おれは再びエンコーダー/デコーダーを装着し RINGO への専用回線にジャ
ックインした。(つづく)

NOVELS POETRY HAIKU

taku@medical.email.ne.jp(Taku Nakajo)