「The Last Wave」

 今世紀最後の、そして恐らく人類が経験する最後の大波がこの浜に到達するのはちょう
ど真夜中ごろのはずだった。日没と同時にながながととサイレンが鳴り、数ヶ月ぶりに街
灯がともった。
 浜におりる前に叔父の家に寄った。叔父夫婦は音を消したテレビを眺めながら食卓につ
いていた。食卓の上には今日のために取っておいたのだろう吟醸酒の4合ビンとつまみが
数品、それに黄色い錠剤と空になったシロップの容器が並んでいた。
「もう行くのか」
「うん」
「気をつけてな」
「大丈夫。ぼくのはエアボードだから、間違っても波に飲まれる心配はないよ。この家の
屋根だって軽く飛び越せる」
「そうか」
 叔父はグラスに手を伸ばし、うまそうに飲み干した。テレビの画面ではメルボルンが波
に飲まれるところだった。高層ビルがつぎつぎと積み木細工のように崩れていく。画面が
切り替わり、カメラは太平洋を北上する巨大な波の先頭を映し出した。波頭に取り付いた
人々がまるで巨大なプリンにたかるアリみたいに見える。振り落とされないようボードに
しがみついているのが精いっぱいのようだ。ときおり立ち上がる人もいたがたちまち波に
飲まれて消えてしまう。ニックはまだ波の上にいるだろうか。今朝届いたメールの最後に
は "see you on the WAVE" と記されていたのだが。
 居間の明かりは消えていて、子供用の小さなふとんにトモヤとマサミが仲良く横たわっ
ていた。
「まるで眠ってるみたいでしょ」と叔母が言って目頭を押さえ、ぼくは黙って手を合わせ
た。
「そろそろ行くよ」
「ああ、玄関のリュックにな、保存食を入れておいたから持っていけ」
「でも…」
「いいから持って行って、裏山にでも隠しておくんだ。何かの役に立つ」
「…ありがとう」
リュックには缶詰や飲料水が詰まっているらしく、ごつごつと背中に当たってひどく重
かった。裏山のてっぺんに埋めようかとも思ったが、土と一緒に押し流されるだろうと思
い直し、リュックの腋に吊るしてあったロープを使っていちばん高いモミの木の枝に掛け
ておくことにした。両手が擦れて真っ赤になり、すっかり汗だくになった。
地べたに腰を下ろして一休みしていると繁華街の方からかすかに軍歌が流れてきた。死
に損なった連中がようやく死に場を見つけて喜んでいるのか。大半の市民は家にこもって
死ぬ準備をしているか、あるいはすでに死んでしまったのか、いずれにしても街は静かだ
った。

情報がネットに流れはじめたのは半年ほど前だった。巨大な隕石が南極に落下して途方
もなく大きな津波が押し寄せ、その後海面が何十メートルも上昇すると同時に地球は厚い
雲に覆われ日射量が激減する…どこの国の政府もはじめは否定していたが、どたんばで発
表された公式見解はこうした風聞をむずかしいことばで言い換えたものに過ぎなかった。
人々は少しでも高いところに移ろうとしたが、国内の道路という道路には検問所が設けら
れ、移民はおろか海外旅行も禁止され、密入国機/船は容赦なく撃墜/撃沈された。アメ
リカはありったけの核ミサイルを打ち込み、ロシアは軌道上の宇宙ステーションを体当た
りさせて隕石の軌道をそらそうとしたが、落下予想地点を数キロばかりずらしただけに終
わった。
ヒマラヤの山奥に太陽発電で自給可能なドームが建設され、健康で遺伝病の素因がなく、
DNAの塩基配列が可能な限り異なる独身男女が全世界から選別されてそこに移されたら
しい…うわさは世界中を駆け巡り、やがて箱船乗組員〜みんなはそう呼んだ〜のリストな
るものが掲示されたが、ぼくの知っている名前はその中になかったし、誰か知り合いがリ
ストに含まれていたという人にも出くわさなかった。
日本政府はビッグ・インパクトの1週間前に公式発表を行い、全国民に安楽死用の薬品
を配布した(不法入国者は当然のごとく無視された)。玉音放送が1昼夜にわたって繰り
返し流れた。曰く、「すべての港が壊滅して資源の輸入が途絶え、農地の大半があるいは
押し流されあるいは水没し、さらには日射量が現在の30パーセント以下に減少した時、
わが国の国土は国民の1パーセントだに養うことができないのであります」
生き延びて殺し合うよりはともに枕を並べて死のうではありませんか!
WHOはビッグ・インパクト後1年以内に少なくとも全人口の95%が餓死または病死す
るだろうと予想していた。地軸の変動が起きた場合には99%。極端に辺ぴな山奥で細々と
自給自足の生活を送っている人々、ビッグ・インパクトそれ自体にさえ気づかないであろ
う人々しか生き残れないというのだ…

浜辺には色も形も大きさもさまざまなボード類を抱えた男女が集まり、みんな黙って海
を見つめていた。月が高く上り、すべてが青い滴に浸っているみたいだ。どうやって手に
入れたのか、ここかしこでライターの火が点り、煙が立ち上っている。たばこの匂いは大
嫌いだったが、妙に懐かしくもあった。
「吸うか?」
 気がつくとタカシが差し出した1本を手に取っていた。死ぬ前に一度吸ってみるのも
悪くないかな、そう思って火をつけかけた時、いっせいに海鳥が飛び立った。砂に落ちた
たばこの赤い目が瞬き、海鳴りの底が重くなった。
「来るぞーっ!」
水平線が一段高く盛りあがり、巨大な水の壁がみるみる押し寄せてくる。ボードを抱え
て走り出す。足がすくんで動けなくなった女の子たち。悲鳴。暖かい尿の匂い。懸命に水
を掻いて沖に向かう。オーストラリアのサーファーたちは太平洋のどのへんまで来れただ
ろう。ひょっとしてニックは波頭でぼくを出迎えてくれないだろうか。波の先頭にとどま
り続けたら何が見えるのだろう? ぼくはエアボードに乗って裏山のモミの梢に向かう自
分の姿を思い描いた。うまく梢に飛び移れたらそのままそこで波が通り過ぎるのを待ち、
リュックを下ろすのだ…いや、そんなことができるはずはない。時速100キロ以上で進む
波にいったん乗ってしまったら降りられるはずがなかった。
やがて視野のすべてが波に覆いつくされた。もはや混沌しか見えず、聞こえず、感じな
い。世界と歴史の果てそのもののような壁、空間と時間をねじ曲げる狂暴な位置エネルギ
ーの塊に向かって、ぼくはエアボードの推力を最大に振りしぼった。(了)

NOVELS POETRY HAIKU

taku@medical.email.ne.jp(Taku Nakajo)