契約(The Contract)

 もともと人付き合いは苦手だったが、妻子を事故で失ってからは徹底した
人嫌いになった。在宅勤務に切り替え、食事は自炊、買い物は通販で済ませ
ることにした。それでも時にはどうしても町中へ出なくてはならない用事が
できる。そんな時は濃いサングラスとマスクで他人の視線をシャットアウト
すが、いやおうなく飛び込んでくるものまでは防ぎきれず閉口する。鏡の中
にしか興味のない女子高生、歩く痰壷みたいな中年男、ところかまわず暴力
的に鳴り響く携帯電話、ヤニとコロンと蒸れた頭皮の匂い… 吐き気とめま
いに耐えかねて外出を断念したことも再々だ。

 ある日夢を見た。夢の中のおれは素顔で堂々と街を闊歩し、道行く人々と
にこやかに挨拶をかわし、地域と組織にすっかり溶け込んで悠々自適の日々
を送っている様子だった。その夢を見てからというもの、おれの自己嫌悪と
他人への憎悪はますますエスカレートし、世界はますます耐え難いものにな
った。
 
「やあ兄弟、ずいぶん落ち込んでるじゃないか」
 ある晩、夢の中でもうひとりのおれがなれなれしく話しかけてきた。
「よけいなお世話だ。おれはおまえになんか用はない」
「そう冷たくするな。おれには大ありなんだ。おまえこのごろいつ自殺しよ
うか、やるんだったらどんな方法がいいか、そんなことばかり考えてるだろ
う。おまえがふさぎこむのは勝手だが、死なれちゃ困る。おれも存在しなく
なってしまうからな」
「ふん、だったらどうだというんだ」
「そうかりかりするな。実はおれにいい考えがある。おれとおまえが入れ替
わるんだ。おれならそちらでもうまくやっていける自信があるし、こっちの
世界ならおまえみたいな変人でも受け入れてくれる。悪い話じゃないだろ?」

 おれはおれ自身と契約をかわして再びこの世界に目覚めた。

 なんの変わりもなかった。

 相も変わらず世界は吐き気とめまいに満ちているし、おれは自己嫌悪で息
が詰まりそうだ。いや、たったひとつだけ変わったことがある。おれの自殺
願望だけはすっかり消えうせてしまったのだ。だってそうだろう? 死んで
この世界から逃げ出してみたって、もうひとつの悪夢の中に目覚めるだけだ
としたら、誰が好んで死を選ぶというのだ。 
                       (了)
('98/6/9)

NOVELSPOETRYHAIKU


HOME

taku@medical.email.ne.jp(Taku Nakajo)