KOBAYASHI Kyoji
JALINET

「電話男」(福武書店)
第3回海燕新人文学賞受賞作


あとがき

 高校生の頃だったと思います。当時大学生で帰省中の兄に次のように語ったことがあり ます。
「人生は虚しいものだ。夢まぼろしのようなものだ。瞬間にこそ真実がある。あとはすべ て実体がない。時間は社会生活をおくる上での便宜上の概念にすぎない。知恵は究極のと ころ、強者が弱者に押しつける身勝手な理屈にすぎない。ああ人生は虚しい」
 さて、兄はこれに対してどう答えたのでしょうか。わたしはひそかに次のように言うの ではないかと想像しました。
「ああ、オレはなんという果報者だ。血を分けた弟からこのようなすばらしい思想を直接 聞くことができるなんて。ありがたや、ありがたや」
 ところが、実際にはこう言ったのです。
「高校時代はみんなそんなふうに考えるものなのだ。オレもそう思っていたし、おやじも そう考えていた。となりのおっさんもそう考えていたに違いないし、八百屋のおやじもト ラックの運ちゃもみーんなそう考えていたに違いないのだ」
 わたしは心の底からガッカリしました。今にして思えば、これは年長者が年少者をたぶ らかす常套的なレトリックなのですが、当時のわたしはそこまで思い及ばなかったのです。
 それ以来、いやそれ以前もですが、わたしは無数の常套的なレトリックにだまされてき ました。学校では教師のレトリックにひっかかって自分はダメな生徒だと思いこみました し、恋をしては相手のレトリックに奔弄されて自分は生きている価値のない男だと絶望し ました。(実はいまだにそうではないかと疑っているのですが。)新聞を読んでは世界は遠 からず環境汚染か資源の枯渇でほろびるに違いないと信じこんで眠れなくなりましたし、 エロ本を読んでは世界はスケベに満ちていると思いこみ、バカな友人と街頭に立って道行 く女の子にかたっぱしから「ねえ、ねえ、お茶飲まない」と声をかけました。(勿論、全 部ふられましたけどね。)
 ああ、思えばどれだけだまされてきたことでしょう。ある日とうとうわたしは決意しま した。もうこんな生活はいやだ。もう絶対だまされるものか。こんな人生とはおさらばだ。 今度はだますほうにまわってやる。だましてだましてだましまくってやる。
 かくして、わたしの処女作「電話男」が作られました。わたしはこれで世の中の善男善 女をだましまくってやるつもりだったのです。
 ところが、どうでしょう。
 みんなゲラゲラ笑うばかりで、誰も信じてはくれないではありませんか。(当り前と言 えば当り前ですけどね。)わたしは随分とものがなしい気分におちいりました。一人くら い電話男の存在を信じてくれる人がいたっていいではありませんか。仕方なくせめて自分 は電話男を信じることにしました。だってそうでもしないと人をだますつもりで発せられ たわたしの言葉たちがうかばれませんから。
 かくして、またしてもわたしはだまされる方にまわってしまいました。きっとそういう 性分なんでしょう。
 というワケでわたしは今日も、自分一人しか信じないであろうウソッパチな話を作り続 けているのです。
 最後になりましたが、「海燕」編集部の寺田博編集長及び中楚克紀氏に心からのお礼を 申しあげます。
一九八五年四月十三日

小 林 恭 二
(C)1985/4 Kyoji Kobayashi


著作リストに戻る