
![]() | 北野勇作 |
会社から帰ってきたら部屋に鯉のぼりがいた。
「何だよ、これ」 「夜中に大声出さないで」 妻が言った。 その間も、問題の鯉のぼりは、小犬がじゃれるようにぼくの足もとにまとわりついているのだ。黒々とした尾鰭とズボンの裾がぶつかりあって、ぱたたんぱたとんと乾いた音をたてた。 「おい、これ」 声をおとして、ぼくは繰り返した。 「鯉のぼりよ」 妻はテレビを見ながら平然と答えた。 「そんなこと見りゃわかる」 「じゃ、なんで聞くのよ」 「そういうことじゃなく」 大きく尾を振り振りなおもまとわりついてくる鯉のぼりから逃れるようにしながら、ぼくは努めて冷静に続けた。 「なんでこんなものがここにいるんだよ」 「勝手に入って来たのよ」 妻は言った。 「ベランダにいたら、すぐ下を泳いでいるのが見えたの。ちょうど四階のあたりね。もう時期は終わってるから、たぶんどこかの家がしまい忘れたのか、それとももういらなくなって捨てられたんだろうなと思った。手を叩いてみたら、こっちに気づいて近よってきたのね。お腹が空いてるみたいだったから、食パンを千切ってあげたら、嬉しそうに食べたわ。しばらく相手をしてて、ちょっと寒くなってきたから部屋に入ろうかなと思ってたら、いっしょに入ってきちゃったの」 その鯉のぼりは今、天井の蛍光灯のまわりをくるりくるりと回遊している。日光を吸い込んだ布の匂いがした。 突っ立ったまま、ぼくはしばらくそれを眺めていた。 大きくてりっぱな真鯉だった。黒い鱗は大人の掌ほどもあるし、五色に塗り分けられた目玉の円もくっきりと美しい。雨と紫外線に長く晒されたためか、わずかに色褪せたところはあるものの、鰭や口のまわりの糸がほつれたりはしていない。作りがしっかりしているのだろう。 「で」 長い沈黙のあと、ぼくは言った。 「どうするんだよ」 「このままじゃ、いけないかしら」 彼女がつぶやくように言った。 「ここに置いてあげるの」 「どこの鯉のぼりなのかわからないんだよ。持ち主が探しているかもしれないし」 「じゃ、持ち主が見つかるまで――」 ぼくは、しぶしぶうなずいた。 * 結局、その鯉のぼりがうちにいたのは、その次の夜までだった。ぼくが会社から帰ってきたときにはもういなくなっていた。 なんでも、ベランダのガラス戸をノックする音がしたので見てみると、そこには同じくらい立派な緋鯉がいて部屋のなかを覗き込んでいたらしい。ガラス戸を開けてやると鯉のぼりは、すいっ、と緋鯉の待つ夜の空に泳ぎ出た。そしてそのまま、二匹並んでまっすぐ遠ざかっていったのだという。 振り向きもしないんだから、と寂しそうにつぶやいたあとで、彼女はふいにこんなことを言った。 「あなた、ほんとうは子供が欲しいんじゃないの」 今でもときどき、妻が夜中にベランダに出ていることがある。何をするでもなく彼女はただそこに立っている。 あの鯉のぼりのことを考えているのか、それとも他になにか理由があるのか、ぼくにはわからない。 | |