'97ベトナムの旅

その1『ホーチミン到着』

1997年2月2日(日)

 いやそれにしてもこんなことをやっておる場合なのか。書く小説は次から次へとお蔵入り、某SF誌に短編がひとつ載っただけ。昨年度の収入そんだけ。これでおまけにまだ小劇場の芝居などやっておるものだから、さらにお金は出ていくわ暇はないわ腰は痛いわ親は嘆くわ、まあ帰ってきたらもうちょっと真面目に今後の身の振りかたなんぞを考えないかんなあと旅立つ椿三十郎もうじき三十五だがな、である。
 同行は森川弘子。拙作『クラゲの海に浮かぶ舟』の表紙及び装丁をやったイラストレーターで、もうこの際だからついでに言ってしまうと、この旅行から帰ってきたらとりあえず籍だけは入れとこか、ということになっている。いわゆる「結婚でもしよか」「このへんでするしかないやろ」という「でもしか結婚」。上方落語『池田の獅子買い』でいうところの、仲人も入れてないいわゆる「どれあい」というやつであるが、ようするにこれは新婚旅行でもあるわけだな。このことによってさらに、「そんなことやっとる場合なのか」度は高まる。
 小雨の関空を午後三時に離陸。ソウルを経由してホーチミンへ。それにしても飛行機はやっぱり怖い怖い。揺れたり傾いたりするたびにスチュワーデスの顔色が変っていないかどうかをいちいち確認する。隣席には何年ぶりかで里帰りするらしいベトナム人青年。テト(旧正月)にあわせて故郷のニャチャンに帰るという。同じような里帰りの人々がこの飛行機にはたくさん乗っているようだ。ベトナムが近づくにつれ興奮してきたのかしきりに日本語で話しかけてくる。
 姫路で暮らして七年。コンテナ洗いの仕事をしている。週に六日働いて給料は二十万。「働いてばっかりで日本はつまらん」
 ベトナムの灯が窓の外に見えたとき、ものすごく嬉しそうな顔をする。
「こっちは暑いんやでえ。日本は寒うてかなわんわ」
 空港に着陸したとたん、機内に拍手がおこった。現地時間で夜の十一時半。
 タラップを下りると夏の夜のにおいがする。子供の頃の夏休みにかいだようななつかしいにおい。ソウルで雪が積もっていたのが冗談のよう。飛行機を降りて真正面、滑走路の向こうにはオリオン座が見える。ここで一句。

滑走路夏の夜風やオリオン座

 これからどうするか、まるで決まってない。市街まで結構距離があるので朝まで空港にいようかということになっているのだがはたして朝までの時間を過ごせるような場所があるのか。
 だらだら続く入国手続き。別に急ぐこともないので列が無くなるまでベンチに座っていた。結局、税関のゲートを出たのが二時頃。いきなりすごい人人人、である。日本から里帰りしてくる人達を親戚やら家族やらが迎えに来ているらしい。何やら書いたダンボールを頭の上に掲げている者が何人もいる。
 それにしてもこの活気はなんなのだ。マンガなら、どわあああああ、と画面いっぱいに文字が出てきそうである。全員の視線がすごい。圧力を感じるほどに目がするどい。ぎらぎらしている。タクシーの運ちゃんがわらわらわらと何人もまとわりついてくる。うるさい。しゃべるしゃべる。しゃべり続けている。おれの客だいやおれの客だと勝手に揉めている。ちょっとまってくれ、こっちは疲れているのだ。とにかく振り切るために足早に歩きつつ森川と、周りの声に負けぬよう大声で相談。
 ちょっとここには朝まではいられそうもない。とりあえず、安宿が集まっているあたりまで行くことにしよう。
 森川が運ちゃんと値段交渉。メモ片手に慣れた様子。おれ知っているホテルまで連れて行ってやろうとしきりに運ちゃんが言うのを、とりあえずガイドブックにあるいちばん安いホテルを指差し、我々はここに泊ることになっているのだ、と。
 タクシーで市街まで約15分。運ちゃんクラクション鳴らしまくり。バイクがやたらと走っている。どれも二人乗りとか三人乗り。こっちではどうやらそれが普通らしい。
 はじめに指定したホテルは満パイ。この近くのホテルを知っているから、と運ちゃんが言う。ノープロブレム、ベリーチープだ、と。
 五十メートルほど離れたところにあるホテル、運ちゃんは自信たっぷりに扉を叩くがここも満パイらしい。いきなり運ちゃんヤケクソのようにそこらのホテルのシャッターやらブザーやらを鳴らしてまわる。
  とりあえず空いているところは見つかったがツインで25ドルと当初の予定よりかなり高めである。エアコンにシャワーに冷蔵庫までついているからとホテルのニイちゃんは主張。ぼくとしては、もう疲れてるからとりあえずここでええやん、という気分なのだが、旅慣れた森川は引き下がらず。メモを片手に交渉を続け、リュックを担ぎ直し、そんならもう出て行くという仕草までやって20ドルにまで値切る。それでも不満な様子。なぜこんなに元気なのだ。
 まあとりあえず今日はここに泊り、明日もっと安いところを探そうということになる。正直、ほっとした。シャワーを浴びて、四時頃ベッドに入る。




2月3日(月)

 疲れのためかそれとも単に普段からの習慣か、昼前まで寝てしまう。両替のことをホテルのニイちゃんに尋ねるが、なにせこっちの英語能力が乏しいためいまいち言っていることが理解できない。ニイちゃんも、こりゃだめだ、と思ったのか、いきなり10万ドン貸してくれる。(ほぼ、100ドン=1円くらいである)
  バックパッカーの集まる安宿街になっているのが、ここファム・グー・ラオ通り。道端の屋台でサンドイッチを買う。小ぶりのフランスパンに酢漬けの野菜みたいなのとかトマトとかハムとかペーストだとかを挟んだもの。並べてあるのを指差せばチーズなんかも入れてくれる。トウガラシを刻んですり潰した赤い汁もかける。(この刻みトウガラシは大抵の料理に使われている。かなり辛い。入れるかどうかを聞かれたりもするから、こっちの人でも苦手な人がいるのか、それとも外国人にだけ尋ねているのか)
 3000ドン。ということは日本円にして約30円か。安いなあ。しかもうまい。サンドイッチ好きとしては非常に嬉しい。(屋台ごとに入れるものがかなり違うということも後になってわかる。これまた嬉しい)
 さて、道路にはとにかくバイクが多い。しかも何人も乗っている。バイクにシクロ(自転車と人力車をくっつけたような乗り物。別に観光客向けとかでなく、こっちでは普通の交通機関として使われている)それに自転車、かなり数は少ないが自動車、などで道路はまさにカオスな状態。かなりの交通量の交差点でも信号はほとんどない。車線もかなりいいかげんである。それでもなんとなくうまくいっている。混沌のなかにもいちおう秩序らしきものが形成されている。活気があるというか、やたらに元気である。そんな状態で皆がクラクションを鳴らしまくるからすごくやかましい。
 歩行者はそんな道路をただゆっくり渡る。流れが跡切れることなどないから、バイクやら車がよけてくれるということを信じて、ただゆっくりと行き交うバイクの隙間を進んで行くのだ。慣れてくると、まあこれはこれで効率のいいシステムかもしれない、と思えてくるから不思議。(信号のある交差点も幾つかあるのだが、守るのが三分の一ぐらいだったりしてかえって渡るのが怖かったりする)
 それにしても暑い。ほとんど日本の真夏である。
 この日差しのせいか、それともはやくもベトナムにあてられたのか頭がくらくらするが、とにかく街を歩く。レ・ロイ通りを歩いてホーチミン人民委員会庁舎を左に見つつホテル・コンチネンタル。こういう大きなホテルはトイレ・ポイントとして記憶しておかねばならない。タダで使えるトイレというのは、けっこう重要である。
  市民劇場がある。前に特設ステージを作っているらしい。森川は工事をしている人達に「ルッキング、ΟK?」などと笑いかけつつ、ずんずん中へ入り舞台の写真などを取っている。
  市民劇場から近いグエン・フエ通りでは花の市が開かれている。あれはマリーゴールドか。黄色い花で溢れている。菊人形のごとく龍やらキリンやら水牛に形どられた花、花、花。道路に風船やお菓子の屋台がたくさん出ているところは日本とそっくり。いかにも観光客然としたベトナム人が何人も、カメラをかまえて子供の写真をとっていたりする。
 銀行で両替。うろうろしつつ露地でコーヒー屋と大衆食堂を混ぜたような店を発見。ここでウドン状のものを食べる。なるほどこれがフォーというやつか。麺はキシメンに近い。ダシは醤油味をすこし甘酸っぱくした感じか。そこに例の赤い刻みトウガラシがたっぷりかかっている。切ったライムが小皿でついていて、こいつを搾ってかけるとまた違った味わい。
  コーヒーはひとりにひとつずつ、グラスの上にはアルミのフィルターが載っている。これがベトナムスタイル。ちゃちなフィルターから、ぽたぽたぽたぽたとコーヒーが透明のグラスに溜まっていくのを眺める。グラスのなかにはこれでもかというほどの砂糖。スプーンでかき混ぜるとじゃりじゃりと鳴る。ひゃあこれは、と思ったが飲んでみるとこれが暑さで疲れた身体にはうまい。コーヒーも深いというか粘りがあるというか、不思議な味である。
 近所の人が食べに来ている。ここでも森川は英語もほとんどわからないにもかかわらず気軽に話し掛け、たちまちうちとける。これは才能だなあと思う。うらやましい。
 ベン・タイン市場へ。土産物売場を通り過ぎ、奥へ奥へと入っていく。
 鳥やら魚、ナマズ、エビが並んでいる。生きている鶏をその場でさばいていたりする。唐突にブレードランナーのワンシーンを思い出したりする。
 果物がたくさん並んでいる。相場がわからないため、ボラれているのではと常に警戒している。地元民が買っているのをしばし観察するが、札を見てもそれがいくらの札なのかまだよくわからない。
  とりあえず、巨大なザボンらしきものを1個買う。冗談のように鮮やかな青色をした巨大な手長海老に心を残しつつ市場を出る。「台所が使えたらなあ」とため息まじりにつぶやく森川弘子であった。


(つづく)

無断転載禁止 (c) Yusaku Kitano/Hiroko Morikawa(イラスト)
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