'97ベトナムの旅

その7『露地の正月』

   ホテルを走り出ようとしてフロント嬢に「今日も朝食があるよ」と呼びとめられるが、すでに心ここにあらずの森川弘子、「お獅子、お獅子見てから」と思いっきり日本語で答える。向こうは笑っていたからたぶんそれで通じたのだろう。
 ファン・グー・ラオ通りに出てみると正面にはあの見覚えのあるトラック。そして舗道ではすでに獅子が踊っているではないか。
 笑い顔のお面をつけた人が、手にうちわみたいなものを持って獅子を煽る。すでに、お囃し全開。
 ちゃらつつちゃん、ちゃらつつちゃん、というあの単調で陽気なリズム。
 寄席太鼓のリズムにも似ている。あの「おたふくこいこい、おたふくこいこい」というやつ。
 獅子は踊りながらホテルとカフェの間の狭い露地に入っていく。近所の子供も大人も、そのあとにぞろぞろと続く。そして、森川弘子はといえばすでに人ごみをかきわけかきわけ、いつのまにやら先頭に近いところにまで達しているのだ。あわてて後を追う。
 ぐねぐねと曲がりくねった露地をお囃しで満たしながら獅子は奥へと進んで行き、露地奥の家へと入っていく。西瓜のお供えと電飾ぴかぴかの祭壇の前で踊る。笑い面をつけた人物も獅子にからんで手招きしたり逃げたり噛みつかれたり突き飛ばされたりしている。その動きは妙にリアル。噛まれるところなどけっこう凄みがある。獅子の頭を支えている方が足方の肩の上に立ってそのまま踊ったり、とサービス満点。
  と、露地の入口の方で歓声があがる。なんやなんやとまたまたベトナム人の人波をかきわけて出ていくと、おお、龍である。龍を載せたトラックが着いたのだ。荷台の後ろが開き、見ている間に龍が降りてくる。ぞろぞろぞろぞろぞろぞろぞろぞろ、となかなか終わらない。うーむ、長い。百メートルはある。本当である。決して大げさに言っているのではない。
  なぜこんなにしつこいのかというと、向こうで他の日本人観光客にこの話をしたとき、「それでですね、ここで百メートルくらいの龍がね」というと「またまたあ、そんな大げさな」とかさんざん言われたのである。しかし大げさではないのだ。百メートルはあるのだ。私は見た。不思議だが本当だ。写真だってある。とにかくそういう龍が身体を伸ばした。
 当然、広い大通りでやると思うでしょ。ところが、いきなりこれがさっきの狭い露地に走り込んでくるのだ。「またまたあ、そんなこと」「いや、ほんとなんですよ。なんで見てないのかなあ。すぐそこでやってたのに。いや、ほんとですって」「あははは、それじゃ、まあ、ほんとってことでいいですよ」「いやいや、あのね。いいとか悪いとかそういうんじゃなくてね」ほとんどネッシーか雪男である。
 さて、そんなことはおかまいなしに龍は露地のなかを走っていく。なるほど龍はこういう使い方も出来るのか。感心していると、奥までいってUターン。その操縦性の良さをいかんなく発揮する。やんややんやの喝采をあびつつ、龍は次のお座敷があるのか早々にトラックで去っていった。
  しばし休憩。獅子舞いの道具一式を露地の壁沿いに並べて、カンフー姿の兄ちゃんたちは、カフェ・ダーやらコーラを飲んでいる。獅子のまわりには子供が集まっている。恐る恐る口のあたりを触ったりしている。酔っ払ったオヤジが置いてあった太鼓を叩こうとして若い衆に怒られる。
 森川も置いてある獅子をじっくりと観察している。顎や耳、まぶたなどの可動部分や材質を確かめたりしている。
「これいくらぐらいするのかなあ」とか「もし持って帰るんやったら手荷物で機内に持ち込まんと壊れてしまうやろなあ」などとぶつぶつ言っているようだが、もちろん聞こえないふりをする。
 ホテルで朝食。路線バスで今日はグエンフエ通りの方へ。
 やはり閉っている店が多い。どの家も国旗を出している。あたりをぶらぶら眺め歩きながら、もう何度か入った裏通りのカフェの辺りへ。あのカフェもやっぱり営業はしていない。親戚らしき人達といっしょに御飯を食べている。
 そのまま通り抜けようとしていると、親父がこっちに気づいて手招きする。おばあちゃんも出てきて、身振り手振りで「いっしょに食べていけ」と。
 もうすでに中二階からイスが降ろされ、並べて置かれている。「では、ちょっとだけ」などと日本語で言いつつ入っていく。
 さっそくいろいろと英語で話しかけてくるのは、どうやら甥らしい。両親と共にオーストラリアに住んでいる。国籍もそうだ。パスポートを見せてくれる。カンガルーとエミューの絵のあるパスポート。あれも食べろ、こっちも食べろと、どんどんよそってくれる。鶏肉や魚の煮物。御飯もおかわりしろ、と。
  腹一杯食う。正月飾りの写真を撮らせてもらう。なんでそんなもの撮るんだ、と不思議そう。森川が、メモに日本の正月飾りの絵を描いて見せる。鏡餅と蜜柑。
 もらってもいいか、と甥っ子。オーストラリアに帰って日本人の友達に見せてやろう、としまい込む。
 食べ終わって、コーヒー。それにしてもここのコーヒーはうまい。この頃になるとだいぶこっちのコーヒーにも慣れてきて、店によるうまいまずいの差ががわかってくる。
  皆で記念写真。年始の挨拶に来ていた親戚らしき人と名刺交換する。うーむ、すっかり御馳走になってしまったなあ。
 お正月気分のまま、映画を観に行く。子供を主人公にした遺産相続をめぐるコメディ。ここでも最後に獅子舞が出てきてハッピーエンド。さすがお正月映画である。
  夜はホテル近くの屋台でラーメンに似た麺と春巻。そのあとは露地に入ってプリンを食べる。砕いた氷がたっぷりかかっている。これは氷といっしょに食うのだ、と仕草で教えてくれるおばちゃん。がりがりべりばりぼり。うまいなあ。氷も果物も遠慮なく食いまくっているが、今のところお腹はなんともない。

露地裏のプリンは氷をかけて食う

 ホテル近くのカフェも営業はしているのだがのんびりしたもの。カフェのネエちゃん、いつのまにかいなくなったと思っていたら、お客をほったらかして隣の店でトランプ。露地から走り出てきた女の子、携帯電話のオモチャで遊んでいる。
 夕方になってから、あの西瓜を買った通りへ。ここもまるで別の場所のようになっている。前に来たときは人やバイクで地面が見えないくらいだったのに、今ではただの赤土の空き地。それでも、ぽつんぽつんと果物や野菜の店が出ている。

旧正月の市場歩き易きかな

 などと詠みつつ、グエンフエ方面へと去る日本人ふたりである。
 あのときは人波をかきわけて歩くだけで精一杯だったが、今日は町並みをじっくり見ることができる。
 道端に子供が何人も座っている遊んでいる。声をかけてきた。ハロー、ハロー。
 なかのひとりがビールをジョッキに入れて持ってくる。ん、なんだなんだ、などとというまに押しつけられるようにジョッキを持たされてしまった。飲め、飲め、という仕草。「あとで、金くれ、とか言われるんやろか」などと森川と顔を見あわせる。まあそうなったらそうなったでいいか。どうせこっちはお気楽な観光客である。
 男の子が一気飲みの仕草をする。うなずいて、一気に飲み干すと、皆が笑う。
  それにしてもこのビールはどこから持ってきたのか。ひょっとしてこいつらが飲んでいたのか。そんなことを思っているうちにも、まあ座れこっちに座れと、道端のダンボールの上に招き入れられ、こんどは串に刺した黒いスルメみたいなものを持ってくる。こうやって食うのだ、という感じで食べてみせてから一本くれる。スルメの甘露煮のごときもの。では、この黒い色はひょっとしてイカスミか。  かじりついて、うん、うまいうまい、などと日本語で言うと、皆が笑う。見回すと人が増えている。大人も子供もわらわらわらと集まってくる。テトで暇なのだろう。
 森川はアルコールがダメなので、これは飲めない、頭くらくら、とジェスチャーで示してジョッキを返す。それがそのままこっちにまわってくる。再度、一気に飲み干す。拍手が起こる。
 いっせいに皆が話しかけてくる。ベトナム語である。こっちも負けずに大声で、あのね、そないにいっぺんに言われてもね、聖徳太子やないねんから、まあひとりづつでもどうせわからへんねんけどね、などと大阪弁で喋り続ける。
 そのうち、気がすんだのかようやく落ち着きを取り戻す。
 名前の尋ねあいになる。向こうが言う名前を繰り返すと、笑いやら拍手が起こる。ひととおりやったところで、ではこのへんでおひらき、という感じでリーダー格の女の子が皆を立ち上がらせる。子供たちのなかのひとりが手を出して、ワンダラー、と言ったのを叱るように黙らせた。
 ごちそうさま、と手を振り再びグエンフエ方面へと向かう。
 そのまま、あの長屋のようになっている一角へ。このあいだ撮った写真を渡すため。
 プリンの屋台のところへ行くがおばちゃんいない。近所の人に写真を見せると、家へ呼びにいってくれた。写真を渡し、またプリン食う。
 犬が仔を生んでいる。生まれたばかりの仔犬のために家の入口にはブロックで囲いがしてあった。
 郵便局へ。
 建物は教会の向かいにあって、入ると正面には巨大なホーチミンの肖像画。映画のセットみたいである。
 エアメールの受付に行くが人がいない。電気はついているし、隣の受付には人がいるのに、明日来い、などと言われる。あんたそこにおるやん、などと思うが、ダメなものはダメ。そういうものらしい。私の仕事は私の仕事、他人の仕事は他人の仕事、という感じ。まあお役所というのはどこでもそうか。
 帰り道、郵便局の近くでフォーと炒めた麺を食べる。どちらもあっさりした味付け。透き通った塩味のスープ。炒めた麺はばりばりばりばりと香ばしくうまい。好みである。


(つづく)

無断転載禁止 (c) Yusaku Kitano/Hiroko Morikawa(イラスト)
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