'97ベトナムの旅

その8『森川弘子ひったくりに遭う、あるいは、
    彼女の役にたたない予知夢』


 ファン・グー・ラオ通りの舗道を歩いていたのである。夜の九時頃だ。ホテル裏の露地の屋台で飯を食っての帰り。このあたりではたぶんいちばん大きなホテルであろうヴィエンドンホテルの前にさしかかろうかというあたり。
 舗道の隅の暗闇に止まっていた二人乗りのバイク。我々の横をすり抜け道路へと出て行こうとしているように見えたのだ、そのときは。バイクが舗道を走ることなどもう慣れっこになっていて不審にも思わない。あいかわらず危ないなあ、もう、とまあその程度。  と、いきなりエンジン音が大きくなったと思ったとたん、「あっ、カバン」とすぐ後ろを歩いていた森川の声。一瞬、何が起こったのかわからない。
カバン、ひったくられたあ
道路に向き直ったときには、もうバイクのテールランプは小さくなっている。 タスキ掛けにしていたのにやられた。たぶん、バイクの後ろに乗っていた奴が、ナイフかペンチのようなもので肩紐を切断して、そのままひったくったのだ。身体を引っ張られたりすることもなく、あっと思った次の瞬間にはそこにあったはずのショルダーバッグは手品のように消えていたという。
 最近のガイドブックには、必ずバッグはタスキ掛けにしろと書いてあるからだろう。向こうも日々進歩しているのだ。幸いカメラしか入れてなかった。撮影済みのフィルムが一本入っていたのは惜しいが、それだけですんだ。カメラももう一台あるから当面は困らない。しかしまあ見事なものである。まるで復座式の戦闘機。待ち伏せから攻撃へ移るタイミング、そしてすみやかな離脱。数日前の、ただ強引なだけのひったくりとは芸が違う、いやあすごいすごい、とか喜んでいる場合やないがな、と、ホテルへ走る。ロビーでめちゃくちゃな英語で喚く。
「ストールンバッグ、ナウ、ジスストリート」とかなんとか
 森川はその横で、バッグの紐をナイフで切られるジェスチャーをしつつ、「しゃっ、ぶうううん」などと言っている。ぶうううん、のところではもちろんバイクにまたがっているジェスチャーをするのである。
「しゃっ、ぶううううん、ではちょっとわかりにくいのとちゃうか」
「ほなら英語でなんて言うたらええの?」
「わからん」
「カメラ、カメラ、しゃっ、ぶうううううん」
 事情を察してくれたホテルの兄ちゃんが近くの警察までバイクで連れて行ってくれる。三人乗りで警察へ。「すごかったなあ。名人芸やなあ」などとバイクの後ろに乗せられたまま森川興奮している。
「あのな、警察に行ったらちゃんとしょんぼりした顔をするんやぞ」
 派出所みたいなところに着いた。さっそく調書をとられる。場所と時間、何が入っていたか。英語がまともに書けなくておたおた。ええっと、アイワズストールンバッグオンザストリートでええんかなあ、などとつぶやきもたもたしていると、もうええもうええ、という調子でここにサインだけしろ、とだるそうな顔で警官。
 ホテルに帰ってきてから、盗難証明書をもらわなければならないことに気が付く。日本に帰ってから保険会社に請求するのに必要なのだ。例によってジェスチャーと森川の絵でそのことをフロントの女性になんとか説明する。いちおう意味は通じたのか、警察に電話して尋ねてくれた。明日、ここへ持ってきてくれるとのこと。ああ、そうかあ、そんなら安心、と部屋に戻る。
 さて、ここで突然妙な話になるのだが、森川弘子は、夢を憶えているということにかけては相当なものである。彼女はほとんど毎晩、何本立てかの長い長い夢を見てそれを憶えている。夢のなかで物を食べることもできるらしい。味もわかるし腹もふくれるという。それどころか、まだ食べたことのないケーキを食べ、はじめての味を楽しんだりもするらしい。彼女の夢の話はいつもなかなかおもしろく、夢の話を聞かされるほど迷惑なことはないなどというのをよく聞いたりするが、それはたぶん話し手が悪いのか聞き手が悪いのかのどちらかであろう、実際、楽しませてもらえることが多い。そんなわけで彼女はその日の朝も、ぼくに夢の話をしている。
 実はそのなかに出てくる幾つかのイメージにちょっと引っかかるところがあって、ぼくはメモしていたのだ。もしやと思い、部屋に帰ってからもういちどそれを見てみた。
 これがなんとまあ、全部出てくるのだ。パスポートのコピー(これは警察に持って行った)、数字の4が落ちてきてそれが刃物であること、そしてそれには触らないようにと警告されること、そして山口百恵にサインを求めるところ(百恵は、もうええ、もうええ、のシャレか?)、等々。
 とにかく要素はすべて入っているのだ。
 朝聞いた時は、4の形の看板が落ちてくるというのは「死」かなあ、それが刃物になってるというのもヤバそうやなあ、などと思っていたのだが。
 もしかしたら、たまたまうまくひったくられただけで、まかり間違えば死んでいたかもしれない。うまく切れずにバイクに引きずられたり、向こうの手元が狂って刺されていた可能性もあるのだ。森川にそのことを言うと、「あ、ほんまや、ぜんぶ入ってるなあ」などと感心する。
「4の番号の入った宝クジでも買えということかなあ、と思うてたのに」
 せっかくの夢の警告やったかもしれんのに、ほとんど意味がなかったなあ、などと笑いあう。彼女にはこういうことがたまにあるようだ。夢に出てきたことが唐突に現実に顔を出したりする。
 たぶん、深いところまで潜っているのだろうなあ、と思う。
「いっつもそうやねん、あとになって、ああこれかあ、て思うことはようあるんやけど」
 そのときは笑っていたのが、さすがに寝るときになって怖くなってきたらしい。 やたらにそわそわして、ドアの前にイスを置いたり、何度も部屋の鍵を確認したり、廊下に誰もいないかどうか覗いたり。
 「死」が自分のすぐそばを通っていったのかもしれないという恐怖がようやくじわじわとやってきたのだろう。

(つづく)

無断転載禁止 (c) Yusaku Kitano/Hiroko Morikawa(イラスト)
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