[第三回パスカル短編文学新人賞作品]

父の背中

  岡本 賢一

 私はつかれた体をひきずるようにして、オガミ商事という見知らぬ会社をめざし、歩いていた。
「おとうさんの背中は、とっても気持ちいいです」
 背中が徐々に重くなっていくのを、ぼんやりと感じていた。
「めぐり会えて、僕はとっても幸せです」
 私は不幸だった。
 それまでが順調といえる幸福な人生であったため、今のこの最悪といえる不幸な状況に、私は叫び出したい心境だった。
「もうだいじょぶです。僕がついてますよ」
 一流とはいえないが、小、中、高、大学とそれなりのところを順調に進み、売り手市場と言われていたバブル全盛期に地方銀行に就職した。
 今から思えば、すべてが夢のようだった。
 ぜいたくな食事。高額な電気製品。広いマンション。年に二度の彼女との海外旅行。それでも貯金は増えていた。係長への昇進も目前だった。
「シャボン玉、飛ばそ。屋根まで飛ばそ。風、風、吹くな。壊れて消えた」
 風呂のない安アパートへ引っ越し、最初の一ヵ月は再就職しなくては、と焦ってみた。どれもこれも条件が悪かったが、このご時世だから仕方ないと、五社ほど受けてみた。ぜんぶ断られた。それでもう、やる気が失せた。
 半年ほど雇用保険をもらいながら、私は競馬とパチンコとファミコンに明け暮れた。そしてこの災難である。
「お酒もたくさん飲みましたね、おとうさん。ほら、こんなに胃が荒れてますよ」
 そう言って背中の怪物が、私の胃をタコのような足で触った。
「やめろ! 触るな! 気持ちが悪い!」
「僕はタコでも、怪物でもありません! あなたの息子の雄一です。雄一と呼んでください、おとうさん!」
 怪物が、私の胃や腸を激しくゆする。奴の足は、背中から私の体内に深く食い込んでいるのである。
「雄一です、雄一です。あなたの息子の雄一です!」
「わかった! 雄一、やめろ! やめてくれ!」
 怪物はゆするのをやめた。
「雄一です。おとうさん」
 ……。雄一はゆするのをやめた。なかなか、ききわけのいい子である。
 私がこの雄一を背負いこんだのは、ほんの三時間ほど前のことである。
 馬券を買うため、地下鉄の茗荷駅で降りたときのことだった。改札へ向かって歩いたつもりが、方向をまちがえてプラットホームの終わりへ来てしまった。
「親子だけに発生する小さな引力です。いつかきっとおとうさんが来てくれると僕は信じてました。あと少し遅かったなら、僕は餓死してました」
 薄汚れた柱の下に、黒々と雄一が落ちていた。はじめは、小さなゴミ袋が落ちているのかと思った。
 私は直感で危険を感じ、引き返そうと背をむけた。
 そのときだった。「あ、おとうさん!」と声がして、雄一が私の背に飛びついて来たのである。
 雄一は私の背中に六本の長い足を突き立て、体内に伸ばした。痛みはなかった。
「おとうさんの神経を麻痺させてるからです。それに突き立てたのは、足じゃなくて触手です。それに神経なんかもたくさん伸びてます。脳の方にも何本か行っているので、おとうさんの考えてることがわかるんです」
 雄一は、自分を息子だと主張し、私の背中から離れようとはしなかった。

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